「さようなら、私のアッヴェニーレ。」

 

 2015年の夏、「ARIA The ANIMATION」放送から10周年を記念して劇場版「ARIA The AVVENIRE」が放映されたのは記憶に新しい。時系列としては、灯里ら3人がプリマになり、それぞれの進路を歩み始めたあと。アイのほかに2人のキャラクターが藍華・アリスの後輩として新たに登場し、初々しい3人組がそれぞれの師匠のもとで、プリマ(一人前のウンディーネ)を目指している。

 

 先日「ARIA The ANIMATION」を最初から通して見返していたのだが、恥ずかしいことに12話「その やわらかな願いは…」を初めて拝見させていただいた。なぜこの話を今になって見たのか、自分でもよく分からない。「The NATURAL」や「The ORIGINATION」の他の話も含めて、この12話以外はすべて見ているのに、不思議な話である。

 今回その12話を見て、多くのことを考えさせられたので、少し自分用のメモとしてここにまとめさせていただく。

 

1.「その やわらかな願いは…」

 

 灯里はある日、とある雑誌で「ネオ・ヴェネツィア最古の橋」の記事を目にする。ただ「最も古い」というだけで、観光名所などにはなっていないのだが、なぜだか灯里は心惹かれ、その橋を訪れることになる。

 雪が積もる中を歩いていくと、その橋にたどり着く。木造の朽ちかけた橋。トンネルのようになっている橋の中は真っ暗で、先がかすかに明るいだけ。ふと灯里が視線を感じて振り返ると、そこにはたくさんの「猫の眼」が光っていた。アリア社長に引かれて橋を抜けると、そこにはさっきまで降り積もっていた雪はまったくなくなっていた。

 

 そこで、カメラを準備している一人の女性に出会う。

 彼女の名は、星野明子。灯里が尋ねると「今日この水路にはじめて水が来るから、記念撮影のために買ったのだ」という。水の惑星と呼ばれているアクアに、まだ水が通っていない水路があったことに驚く灯里。二人はすぐに意気投合し、明子は灯里を家に招く。

 明子から様々な話を聴いたり、彼女が「遠方への連絡はこれが一番」と使っていたデータカードが、灯里の時代には誰も使っていないような旧時代の物であったりしたことから、灯里はこの世界が『遥か昔のネオ・ヴェネツィア』であることを確信する。

 

 夕方になり、灯里と明子は水路へと向かう。そこには子供たち、老人など町の住人がすでに集まっていて、水が通る瞬間を今か今かと心待ちにしていた。やがて少しずつ透き通った水が流れはじめ、オレンジ色の夕陽が水路に満ちると、歓声が上がる。

「この星は、これからもっと水で満ちた素敵な星になります。」

 灯里は確信に満ちた瞳で言う。

 灯里が帰るときが来ると、明子は灯里のもとに歩み寄る。そして、

「さようなら、私のアッヴェニーレ(=未来)。」

 そういって、灯里を送り出したのだった。

 

 

2.なぜ12話は衝撃的か?

 

 この台詞を聴いた瞬間、僕は膝から崩れ落ちた(実際は正座して見ていたので、心の中で崩れ落ちた)。なんだこれは。なんだこれは。って10回は言って、ひとしきり泣いてから、Twitterで「なんだこれは」とツイートした。12話がどうして衝撃的なのか、そしてこの台詞の意味について、これから喋ろうと思う。

 

ARIA The ANIMATION」は全13話しかなく、その中で「主人公格の3人」「3人の師匠たち」の話を最低限しなければならないという制約上、原作を組み合わせたり、アニメオリジナル要素を足したりしながら構成されている。

 だから原作では3巻にならないと出てこない話(アリス・キャロル登場回)が3話に持ってこられたり、9話という序盤の話(アウグーリオ・ボナーノ)がアニメ1期では最終話に持ってこられたりしているのだ。非常に苦心して構成したに違いないと思えるほど入り組んでいる。それなのに、各話が単純な「いい話」で終わらない、ARIAらしさを含有したストーリーとなっていて、あらためて完成度の高さを実感した。

 

 最終話として綺麗にまとまるために、そして2期の「The NATURAL」に続いていくために、年越しの話を最後に持ってこなければならないのは仕方ない。

 が、そこにオリジナルキャラのアイちゃんを再登場させ、そればかりか全員と知り合いにさせ、ネオ・ヴェネツィア世界での不思議な体験をさせるという、一粒で五度くらい美味しい物語になっている。佐藤順一監督の手腕を感じずにはいられない。

 

 このようにして12話「その やわらかな願いは…」を除くすべての話が、原作から抜き出され、組み合わされた話であるのに対し、この話だけは完全にアニメオリジナルで作られている。ちなみにARIAのアニメオリジナル話は、この話と、3期の1・2話の合計3話だけである。

 そうなると、絶対にやりたかったことがあるはずだ、と思わざるを得ない。

 その「絶対にやりたかったこと」って何だろう。

 僕は、それは「過去のアクアの話」と「最後の台詞」の二つだと思う。

 

 記憶にある限り、漫画『ARIA』では、過去のアクアの話は存在しない。それは主人公たちが「一人前のウンディーネになる」目標のもと、常に未来を見ながら生きているので、物語もそれに沿うように現在から未来へ動いていくからだ。ANIMATION4話「その 届かない手紙は…」も、一見過去の話ではあるが、ストーリーは「開拓時代に生きていた人へのビデオレターを、灯里が墓地まで届ける」というもの。だから時間としては「現在」の話だ。

 今のように水で満たされる前のネオ・ヴェネツィアは、どんな世界だったのか?

 主人公たちにとって、また読者/視聴者にとって当たり前のように存在する世界がなかった頃、人々はどう生活していたのか?

 それまでになかった「過去」という時間を示してくれた。

 その点で、12話はこれ以上なく衝撃的だったのである。

 

 

3.最後の台詞の意味とは

 

「さようなら、私のアッヴェニーレ。」 

 アッヴェニーレは「未来」を意味する言葉だ、と12話の最後で灯里がぼそっと呟く。この台詞は過去に生きる明子から、未来に生きる灯里に向けられた言葉であるのだが、それは水無灯里という個人だけに向けられた言葉ではない。

 この話で印象的なのは、徹底した「ネガティブな世界」だ。トンネルの中には、たくさんの猫の眼。そこを抜けると、葉を枯らし、冬支度をする木々。カメラを2度落とす、テラスの釘が抜けて壊れる、ロールキャベツを焦がすなどの小さなミスをたくさんする明子。水が通る前の人々の会話では、「今回もまた水は来ない」と悲観的な老人の台詞があり、その前に何度も失敗を繰り返していたこともうかがえる。 

 そんな世界にいて、灯里は「この星はきっと、水に満ちた素晴らしい星になる」という台詞を口にする。それを受けての「アッヴェニーレ」だ。

 明子は間違いなく灯里を「未来の人」であると確信しているが、同時に、彼女に「希望に満ちた、未来のネオ・ヴェネツィア」を見ている。

 星野明子という過去の存在が、ネオ・ヴェネツィアの未来に向けて放った言葉。

 それがまずこの台詞が持つ、ひとつの大きな意味であると思う。

 

 話は飛ぶが、3期「ARIA The ORIGINATION」において、灯里が一人前に昇格する話がある。そこで灯里は『遥かなる蒼(アクアマリン)』という通り名(一人前のウンディーネだけが使える、別称のようなもの)をアリシアに与えられるのであるが、その時の台詞が、

「ありがとう、私のアクアマリン。」 

 12話の台詞を聴けば、絶対にこの台詞を思い出さずにはいられないくらい、似た響きを持っている。もうこれだけで「やばない?」って感じなのだが、12話のラストシーンには、もうひとつ特徴がある。

 それは、「そこに登場するモブたちの見た目が、主人公格のキャラたちと似ている」ことだ。たとえば前述の「今回もまた水なんて来ない」という台詞の老人は、髪の色や肌の色がアテナ・グローリィと一緒だし、それをたしなめる若者は、アリス・キャロルが大人になった姿をしているのだ。同様に探していくと、藍華、晃、暁、郵便屋のおじさんなど、『ARIA』のメインキャラたちがそれぞれ子供になったり、おじさんになったり姿を変えて存在しているのだが、ここに「へえ、面白~い」だけでは済まされない、とてつもなく大きな仕掛けが存在している。

 なんと、アリシア・フローレンスに相当するキャラだけ、いないのだ。

 つまり星野明子は、その世界においてアリシア・フローレンスが姿を変えた存在であり、その彼女が「私のアッヴェニーレ」と言っているということになる。どひゃー。

 

 それだけではない。

ARIA The ANIMATION』は2005年に放送され、同年に放送が終了している。

原作の『ARIA』は、2002-8年に連載されていた漫画である。

そして灯里の昇格の話は、原作『ARIA』でも最終巻に収録されている話である。

 ここから導かれる結論は、

 アニメで星野明子が「さようなら、私のアッヴェニーレ。」という台詞を言ったとき、まだ漫画ではアリシアが「ありがとう、私のアクアマリン。」という台詞を言っていなかった。

 漫画でのアリシアの台詞は、アニメでの明子の台詞を受けたものである可能性があるということだ(もちろん、アニメが放送された時点で、漫画の重要な話の構成はすでに終わっていて、それを受けての明子の台詞だった可能性も否めない)。

 

 ARIAといえば「原作とアニメ化両方が大成功した作品」として名高く、「互いが互いを高め合って、より良いものへとなっていった」と言われるほどの名作だが、もしもこのアニメ明子ー漫画アリシアの台詞の関係性が本当に前述の通りであったら、これは、実はとてもすごいことなのではないだろうか?

 

 この台詞に関して、まだまだ言いたいことは尽きない。この文章を書き始めた時点でのタイトルは「晃・E・フェラーリ藍華・S・グランチェスタの師弟関係と12話の台詞について」だったことからも察してほしい。

 少しだけ長くなってしまったので、今回はここで一旦終わりにする。